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さんかく窓の外側は夜

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Viswanath V PaiUnsplash

※ネタバレあり
原作漫画未読、1話のみ試し読みした人間が「さんかく窓の外側は夜」の映画を観に行った感想のような考察のような記事ですので、ネタバレよろしくない方はお気をつけください。

 

 

sankakumado

映画「さんかく窓の外側は夜」Official site

 

 主人公は岡田将生演じる「祓う力」のある冷川理人、志尊淳演じる「視える力」のある三角康介の二人。
おそらく今回のエピソードの主要人物としては平手友梨奈演じる高校生のヒウラエリカ、滝藤賢一演じる刑事の半澤日路輝。

 

 観に行ったトータルの所感としてはとにかくずっとシリアス。
個人的にはそこはとても好きで雰囲気なども良かった。

ただ思ったよりもグロいシーンや、スプラッタ要素もあったので苦手な人は少し気持ちが悪いかもしれない。実際、一緒に観に行った知人は少し苦手だったようで、そこがもう少し抑えられていたら良かったと話していた。

 ただ個人的にはあの刺激は必要だったのではないかと思った。
その要素が出てくるのはいわば「生きた人間」を象徴するものじゃないかなと。
霊が見えた時に、その霊が「生きていた時」の行為や、生きた人間の「呪い」を表す時に血飛沫が飛んだり、どろっとした生々しい血が流れたりしていた。また、ヒウラエリカが作らせた呪いの人間(人形)は腐っておらず縫い目が血で濡れており生きているかのようだった。
 逆に三角が日常的に視える霊には血の気がなく、ただただ「そこに在る」とした存在感の表現だった。
そして冷川を通してその霊を視たときに"人間"を見ることができ、血飛沫や生きている証としての少々刺激的なスプラッタを見ることができる。
 つまり、映画としてその残虐性や残酷さは「生きた人間」を象徴するものとして描かれているのではないかと思った。だからこそ多少なりとも刺激的でもその印象を残すために必要だったのではないかと思う。

 

タイトル回収 

「さんかく窓の外側は夜」というタイトルに関しては人間の心理や社会要素を組み入れたものなのかなと考えた。
「さんかく」とは映画の中では霊が視える主人公の「三角(みかど)」、信じない力が強い半澤刑事が踏んでおけと言われる結界の三角形、三角の背中に契約の印として刻まれた三角形などがある。
そして「窓の外側は夜」という言葉は複数の意味があるのかもしれない。

 まず一つが「三角自身の心の外」ということ。
幼い頃から周りの人間には視えない霊が視え、同級生に酷くからかわれたり、信じてもらえず気味悪がられたりしていた三角。そして霊が視えた川で同級生が消えてしまった時に、助け出せず逃げ去ってしまったことをずっと胸に秘めている。
 また、霊に慣れることはなく怖いものには近寄らないことを徹底している。目が悪いのにめがねを外すのも、霊は目の悪さに関係なくはっきりと視えるため、生きているのかそうでないものかを判断し逃げるためだ。
人に視えると話しても「気持ち悪い」と言われることを恐れ、両親にも話していなかった。
このように特別な力に対して恐れ、逃げ、理解を諦め、自分自身の殻に閉じこもっている心理が見られる。

 しかしそれは冷川に出会い、ヒウラや半澤刑事に出会い、人の心理を覗き知る内に少しずつ自分の内を開放する方向にある。その様子が一番わかるのは、人間の負のエネルギーが溜まった貯金箱をどうにかするために乗り込むシーンだ。
目に見える目的は半澤さんの奥さんを救うためでもあるが、おそらくは冷川を救うため、そして自分自身を変えるため、殻を破り外側へ出るための行動だったと思う。
 また、ヒウラが「本当は自分を見つけてくれて嬉しかった」と話した時も「同じだ」と返したこと。冷川が途中で止めに来ても、「死ぬ気か」と言われても諦めずに先へ進んだことは、三角にとってかなりの変化なのではないかと思う。
「窓」とは一般的に囲われた空間にあるもの。外の世界を覗き見ることができるものではあるが、内側と外側を遮断するものでもある。
怖いものには素直に恐れ、立ち向かうことをせず逃げ、内側に閉じこもっていた三角が出た外側のことを意味しているのではないかと思う。

 ただここでなぜ「夜」という一般的に暗いイメージのある言葉なのか。勇気を出して殻から出たのであればポジティブなイメージの言葉を持ってくるべきなのでは、と。
 果たして三角が出た外側は本当にポジティブなものなのか。
 例えば夜の対義語「朝」だとすると、爽やかで澄んだもの、太陽が上り明るく全てが目に見える世界なのか。おそらく窓の外はそんなものではなく、むしろ生きていない霊(人間)より生きている人間の呪いが飛び交っている世界だった。
誰もが透明性があるものでもないし、全てが目に見える世界でもない、むしろわからないことの方が多いように思うそんな世界。さらに三角は除霊作業ではなく呪い、言わば人間の言霊を相手にするようになる。
そのためたとえ三角が外側へ飛び出しても「朝」のような社会ではない、という意味を込められているのかと思う。

 二つ目が「三角形の結界の外側」ということ。
これは一番目に見えてわかりやすかったように思うが、冷川が危険な場所へ入る時に万が一の逃げ場所として三角形の結界を描いた。その結界の内側は「信じない力がある」半澤刑事がいたからこそ成り立つ安全な場所だ。つまり外側は危険な世界を表す。
 三角や冷川は今まで目に視えて、耳で聞こえてきたから「信じている」側であり、その信じる世界は危険な場所だ。暗くて黒くて見えないのに見えるものが在る場所は、まるで真っ暗な夜のようだ。
そのために結界の外を出ると夜であることを意味していると考える。

 

信じない力と信じる力

「信じない力」については少し面白いなと思った。人は人を信じることで物事が進むことが多いが、それゆえ信じないことよりも信じることの方が容易いのではないかとも思う。
 映画内でも、見えるからこそ信じる。愛するからこそ信じる。期待をするから信じる。多くの信じているからこそ進むシーンがあったが、半澤刑事にとっては信じないからこそ進めるものがあった。
霊は目に視えないから、三角などには心身に影響のある場所にも進め、呪いを信じないからヒウラの呪いは効かないシーンなど、基本的に物質的でなければ信じない刑事だった。
 ただ奥さんは物質的であり唯一信じるものだったからこそ、呪いが効いてしまった。
人を愛することは本能的であり、感情的ではないと個人的に思っているが、それは性能的に抗えないものであり、信じないことができないからこそ半澤刑事は唯一「信じている」のかなと思った。

 

「一緒にいると怖くない」と最初は三角が冷川に言われていた言葉を、最後には三角が冷川に話すシーンがあった。怖い対象は違えど、冷川も三角もヒウラも、自分の能力を無意識に恐れ、その力に対する人間を恐れ、人と深く付き合うことをせず生きてきている。
そんな三人が恐怖に直面し、向き合う姿を描いているのかなと感じた。
 おそらくそれは霊が見えたり、呪いが使えたりする特殊な力を持つ彼らだけではなく、普段わたしたちも目に見えない相手の心理を汲み取りつつも、内省を疎かにしている人は多いのではないかと思う。目に見えないものは怖く信じることは難しいが、またそれを見えるものとして信じ向き合う力はとても大きな力になると思う。

母親について

 ヒウラの母親はヒウラの目の前で殺されたこと、冷川の母親も「もう母親ではない」と冷川を突き放し、冷川の前で殺されたことは一種の母性という根源を失うということに関係しているのかなと少し思った。
一方で三角は自分を気にかける母親が健在しており、最後には霊が視えると告白する三角を受け入れているシーンがある。
 母とは、その子供を自分の腹を痛めて産んだ人であり、子は母にとって自分の血肉からできた分身とも言う。子が生まれた根源、祖である。
その母親を目の前で失ったということは、彼ら自身の人生を一度途絶えさせたということを示唆しているのかと思った。
 冷川は母親が自分の呪いによって殺された時までの記憶がなくなっており、「大掌様(だいしょうさま)」と崇められていた人間ではなくなっている。それ以降の半澤刑事に見つけてもらったところからの記憶しかなかった。
 ヒウラに関しては、母親が殺されたショックにより呪いを使い始め、シリアルキラーのようなヒウラとなっている。つまりどちらもそこが転機となり、別の人生が始まっているように思う。
 三角に関しては父親については、原作を読んでいないので知らないが、母親には素直に向き合えない対象として描かれているように思う。つまり自分の分身であり、自分自身の力に素直に向き合えていない三角だ。
 ただこれは少しわたしが飛躍しすぎなのかもしれないし、冷川とヒウラに関してはストーリー的にPTSD、心的外傷ストレス傷害のような大きなショックを受けるさせる背景としての演出かもしれない。
少し調べたところどうやら原作では、冷川は記憶はなくなっていないようなので真相はわからない。

 

ここから感想

 久しぶりに霊や呪いといった目に視えないもののホラーミステリーを観たが、普段視えたり感じたりしない霊や、また人間の心理といった目に見えないものを「信じさせる」演出はなかなか難しいんだろうなと思った。
知人はその心理や行動があまり理解しにくかったと話していたし、スプラッタは少し気持ちが悪かったそうなので、人によっては主人公たちの行動が少し突飛に見えるのかもしれない。
 またストーリー展開としてはおそらくテンポが良い方だと思うので、スピードが早く感じる場合もあるのかもしれない。

 岡田将生さん、志尊淳さん、平手友梨奈さんの演技は漫画やアニメを実写化したときのような不自然さは見られなかったと個人的には思う。
 岡田さんは先日「重力ピエロ」の映画を観たのでその印象が最後だったが、ニヒルで淡々とした人間の様子と、幼い頃と被っていたのであろう最後の泣く演技はとても子供らしく、でも大人で上手いなと思った。
余談だが、脚本の相沢友子さんは「重力ピエロ」の脚本も担当していたと知り、そりゃずっとシリアス得意じゃん、好きじゃんってなってる。
 そんじゅんこと志尊さんはD2の頃から観ていたが、相変わらず目がでかい。とにかく目が少女漫画並にでけぇな、という感想。その顔で恐怖する顔や嘔吐する演技はすごく人間っぽく崩れていて良いなと思った。
 てちこと平手さんの演技は初めて観たが、何よりまずお顔の小ささに驚いた。お父さん役のマキタスポーツさんと並びの映りの時に、あまりの小ささに顔にしか目がいかずセリフを忘れた。可愛かった。
そして演技は下手ではなかったと思うし、あのアイドル時代からの平手さん独特の雰囲気は呪いを行うヒウラエリカに合っていたんじゃないかなと思う。

 

 今回ヤマシタトモコ先生の原作は試し読みで1話しか読まずに映画を観に行ったが、おそらく漫画では冷川と三角が除霊作業を行うシーンはもう少し丁寧に描かれ、二人の距離を縮める時間もゆっくりなのではないかと思う。
 また、本屋で二人が出会い最初の除霊を行うシーンから、手の位置が原作と違ったり霊をぶん投げることもしない。三角が気持ち良すぎて気絶もしないし、その後の少しギャグのようなテンポもなかったので、最初から「これは原作とわりと違うかもな」と割り切って観ていた。
 そしてBL要素としても大衆向けに少し薄くなっていると思うので、さらにニアホモ感が強まっているとは思う。セリフが所々意味深な言い回しをしたり、少し距離が近い程度のもの。
なので原作とは少し違うものとしてはおそらく楽しめるものなのではないかと個人的には思う。
ただわたしとしてはヤマシタトモコ先生の絵も好みであり、原作も気になるので今後読んでみようと思う。


 ホラーやミステリ、サスペンスものが好きなわたしとしては、一つの二人の話としてはなかなか面白い映画だったと思う。
 生きている人間が一番怖い、とよく言うけれどまさにそれを目に見える形にしてみたよ、という感じかもしれない。
少しのグロさやスプラッタ、ずっとシリアスが大丈夫な人にはオススメする映画作品の一つだ。

 

 

さんかく窓の外側は夜 原作:ヤマシタトモコ